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英国人が家康に仕えてたとは・・・やるやん

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朝日新聞によると徳川家康の外交顧問だった英国人の三浦按針(あんじん)(ウィリアム・アダムス、1564~1620)の墓と伝わる長崎県平戸市の石碑下で出土した人骨は、西洋人の骨と判明した。とのこと

家康の時代にも外国人が日本に来て、しかも国家の中枢で召抱えられたいたんだと思うと胸が熱くなる。

家康がなくなると鎖国が始まって左遷されたみたいだけど結婚して
息子ジョゼフと娘スザンナ を生んでるみたい。ジョゼフの名前とイギリスからの大冒険ぷりを読むとジョジョの奇妙な冒険を思い出した。

これは日本人にもわずかばかりイギリスの血が混ざってるに違いない。

以下 Wikipediaの抜粋引用

ウィリアム・アダムス

ウィリアム・アダムス(William Adams, 1564年9月24日 – 1620年5月16日(元和6年4月24日))は、江戸時代初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイングランド人航海士・水先案内人・貿易家。三浦 按針(みうら あんじん)の日本名でも知られる。

船大工としての経験を買われて、西洋式の帆船を建造することを要請される。永らく造船の現場から遠ざかっていたアダムスは、当初は固辞したものの受け入れざるを得なくなり、伊東に日本で初めての造船ドックを設けて80tの帆船を建造した。これが1604年(慶長9年)に完成すると、気をよくした家康は大型船の建造を指示、1607年(慶長12年)には120tの船舶を完成させる

この功績を賞した家康は、さらなる慰留の意味もあってアダムスを250石取りの旗本に取り立て、帯刀を許したのみならず相模国逸見に采地も与えた。また、三浦按針(”按針”の名は、彼の職業である水先案内人の意。姓の”三浦”は領地のある三浦郡にちなむ)の名乗りを与えられ、異国人でありながら日本の武士として生きるという数奇な境遇を得たのである。のち、この所領は息子のジョゼフが相続し、三浦按針の名乗りもジョゼフに継承されている。

帰国を諦めつつあったアダムスは、1602年(慶長7年)頃に大伝馬町の名主で家康の御用商人でもあった馬込勘解由平左衛門の娘・お雪(マリア)と結婚したとされてきた。しかし、馬込勘解由の娘とする説は1888年(明治21年)の「横須賀新報」、1892年(明治25年)の菅沼貞風『日本商業史』が初出であり、現実的に勘解由本人の娘とは考えられず、実際の出自は不明である。また、お雪という名前も1973年(昭和48年)石一郎の小説『海のサムライ』を初出とし、牧野正『青い目のサムライ三浦按針』の英訳書を通じて誤って広まったものであり、史料上夫人の名前は残っていない。

彼女との間には、息子ジョゼフと娘スザンナが生まれている。

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